昭和45年4月15日 夜 6分
信心をさせて頂いて、いよいよ分からせて頂くことは私共の生きる世界に本来怖いとか、困るといったようなことは無いということ。ところが実際は困った問題が沢山あるし、または怖い問題がいくらもあるということです。
そこで、お互いがそのどういうわけに困ったと言わなければならないか。どういうわけ怖い思いをしなければならないか。いわえる不安、しょうそね。不安な思いをにからなければならないかと。いうことなんですけれども。結局はお互いの芯ぶそく、いわえる信心不足又は、神様を信じる力の薄い証拠なのですから。そこのところを極めて、いかなければならん。いわえる、力を頂いて行かなければならないということです。
例えば、暗い道を子供が一人ではよう行けませんけれども、大人に共のうて参りますようにですね。いわえる怖いとも思わず付いていくようなもんです。いわえるそこには大人がおるから、子供は怖いとも思わずに、子供だけではやっぱり怖いね。ですから、実際は怖くないことでしょう。だから信心させて頂くものは、そういうところが有り難いですね。
怖いと思う問題でも、お取次を頂いて親先生が心配しなさんなぁと言われたら、もう親先生と一緒にあるという気持ちですから怖くないでしょうがね。
ですからね、私は今朝方からお夢を頂いていたことを今晩のことにお夢を頂いておったと思ってから、あの思わせて頂いたんですけれども。
丁度漫画風に書いた絵なんです。それがその、小さい娘さんが青年の力の強さの人に向かってですね、何か怖いことがあったらしくてですね、お兄ちゃん助けてというてやってきた男なんですね。そうしたら、そのお兄ちゃんがね、その心配するな。相手はちんぷらじゃないかと。まぁちんぷらか、その終われたかなんか男らしいんですよ。ですから、そのお兄ちゃんがそのちんぷらよりも強い力を持っているから、例えばその妹なら妹にですよね、心配するなと。相手はちんぷらじゃないかと言うて、その言うておられるわけですよね。やっぱり怖いことがないということじゃない、あるわけなんですよね。
けれども力があればそれを例えば、とってなげれれるだけの力があれば、だから怖くないということになるわけです。
ですから、どうしてもやはり力を頂くと同時に、お取次を頂いてです、お取次の御徳によって私共が安心のおかげを頂いていくということね。
お取次を頂いてからのことだからと。今日もあるまぁ難儀な問題ですけれども、どんな人間関係で、御兄弟の方の問題でお参りして見えた、丁度『(?)』下がったと同時に参ってきておりました。
それでお話を聴かせて頂いて、そりゃ本当困ったことじゃんのうと私は申しましたけれど。けれども、ほらやっぱり日々お取次を頂いてからのことだからね、日々お取次を頂いてからこんなことが起こっているのだから、その心配することは困った事の用だけれども心配することはいらんたいね、というて。先生そう思うと安心が出来るけれどね。
でないとやっぱり遠くはなれていることですから、やっぱり心配になるわけなんですけれどもね、ですからそのように私達がお取次を頂いて、安心のおかげを頂けれるところまで信心を進めたら、今度は自分自身もやはり力を頂いて、なら家にはお母さんがいざという時には、母さんの顔色を見ただけで、安心するとね。お父さんが心配するなと言われるから、心配せんで済むというだけのお父さんであり、お母さんである。また信者でなければならない。そういう力を一つ鍛えていかなければならないというわけなんですね。
そこで力を頂くということはやはり、日々の生活の中にです、いよいよ本気で御神いんを悟らせてもらえ、御神いんを、金光大神の教えて下さることを守らせて頂くというようなところから、生まれてくる体験。そういう体験がですね、積み重ねられて、はぁなるほど、心配することはいらんのだなぁ。世の中には怖いものは無いのだなぁと。怖いと思っておったのは神愛の現れであるんだなということがです、その実証つけられてくる、体験づけられてくるわけです。そこにいわば信心をさせて頂く者の上には怖いものは無い。また困ったといったようなことはあろうはずは無いということになるのです。
そういう信心をお互いが目指していかなければならんと思うですね。
どうぞ
末永あい